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2010-01-07 12:30:25| 人氣289| 回應0 | 上一篇 | 下一篇

日本雑感(六)「英語学習」

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「英語学習」:

年末に家にあった本とノートの整理をしました。高校時代の参考書やノートをひっぱりだしてみたわけですが、英語の参考書の多さ、英語を書き取ったノートの多さに我ながら驚きました。これらの参考書のうちどれか1冊でも丸暗記したら、英語で会話をしたり、簡単な文章を読むことなど難なくできそうです。丸暗記はしませんでしたが、残されたノートを見る限り、英語学習にはそれなりの時間をかけていたことがわかります。でも、こんなに時間をかけていたわりには、これまで一度も英語で読み書き・会話ができるようになったことがないのです。

後の中国語学習に比べれば、英語のほうが学習環境は格段に「良かった」はずなのです。自分が特に努力しなくても、英語に関してはそれなりの学習環境が得られます。それなのに、現在の私は、中国語では読み書きができ、博士課程の授業も受けることができますが、英語はさっぱりです。どうしてなのかな、と本にかかった埃を払いながら考えました。

当時のノートをぱらぱらめくって感じるのは、「誰に向かってこの勉強をしているか」が、英語学習のときと中国語学習のときでは、全く異なるということです。

英語のノートを見て感じるのは、当時の私は、「誰かに私の表現したいことを伝えるために英語を学んでいる」のではなく、英語は「テストの得点をアップする」ためのものでしした。でも、私の英語学習を阻害していた本当の理由は、「『英語を勉強している自分』はちょっと可愛くて、いい感じ」ですが、しかし一方、「あまりにも英語が飛びぬけてできると(たとえば発音が良過ぎる)、クラスで浮いてしまって、クラスメートから排除される」という恐怖だと思います。つまり、当時の私にとって英語学習は、「ちょっぴり知的で可愛く見られるためのツール」に過ぎず、従って、「外国人みたいにぺらぺら」になって、「ちょっぴり知的で可愛い女の子」の範疇を超えてしまうことなんて、あってはならないことだったのです。だから、「あれだけ時間と労力をかけたのに英語ができない」というのは、別に驚くべきことではないのでしょう。むしろ、私はそういう結果を得るために、必死で努力をし、そして、自分の希望通りそれを達成したのです。

三浦展の最新書を読んでいると、私が中学高校時代深くとらわれていた「横並び意識」は、今の若い世代をも縛っていることが分かります。この本に出ていた草男が言っていましたが、彼らにとっては、パリに行くのも熱海に行くのも一緒で、みんなで思い出作りをするのが目的だから、楽しそうな写真が撮れれば場所はどこでも良い。旅行先で何を見るのかというのは、あくまでも副次的なもので、楽しい思い出が作れて、おまけとして何か見ることができたらそれはそれでよい、といった発想らしいのです。日本で生まれ育った者は、日本にいる限り、こういう枠組みの外に出るチャンスはないのでしょうか。それとも、これから日本に仕事がなくなると、私たちの思考の枠組みは変化しないまま、アジアに放り出されるようになるのでしょうか。

日本にいると、社会の内向きなエネルギーに飲み込まれてしまいそうになります。それはそれで、らくちんで心地よいものなのですが、この状態に甘んじていては、精神的にタフになることはできないでしょう。とはいうものの、台湾にいるときには、周りの人はすべてこういうらくちん状態に身を置きながら私にあれこれ言っているのかと思うと、私ばっかり苦労するのはばかばかしい、なぜ自分から進んで不平等な関係に飛び込まなくちゃいけないのかと思うようになりました。

台長: 雪子
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