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2010-06-18 10:38:50| 人氣654| 回應0 | 上一篇 | 下一篇

鷲田清一の「哲学カフェ」

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617日付の朝日新聞に、鷲田清一の哲学カフェに関する記事が掲載されていました。そ記事の中に、私が今勤めている社区大学の精神につながる発想を見出したので嬉しくなりました。以下は引用です。

「・・・・・・哲学を大学の研究室から解放し、さまざまな場所で、一般の方々に身近なテーマをめぐって日常の言葉で対話していただく試みです。始めるにあたって、まず三つの約束事を作った。一つはお互い名前しか明かさない。二つ目は他人の言葉を引用はしない。三つ目は他のメンバーの話は最後まで聞く。これだけでぜんぜん違うんです。演説をぶつ人もウンチクをたれる人もなく、純粋に論理にのっとった話し合いができる。」

「・・・・・・だから結論が見つからなくて一向に構わない。むしろますます分からなくなったくらいの方がいいんです。元来コミュニケーションというのは話せば話すほどおのおのの違いがより細かく見えてくるところに意義があるんですね。だから読書会ではお互いの共通点ではなく、違いを見つけて下さい。そうすることで、「オール・オア・ナッシング」の世界から抜けられる。人間、違いが見えると楽になるんです。

私は家族や友人に「あなたの学生はどんな人がいるの」とよく聞かれます。普段は適当に答えますが、本当は相手がどんな階層出身の人か、現在の職業は何か、夫は何をしている人か、などということには全く興味がないのです。いや、興味がないわけではありません。そういうことを直接たずねることをしたいと思わないのです。対話の中で、報告の中で自然と分かるには越したことがないのですが、最初に肩書きを持ち出して、それで相手に自分の主張の正当性を納得させようとする態度は、百害あって一利なしだと思うし、少なくとも、社区大学には向いていないと思うのです。私はそういう肩書きがある人としか付き合えない人をつまらないヤツだと思うし、できればそういう人とはあまり時間や空間を共にしたくないのです。だから、鷲田清一が哲学カフェで作った約束事、私はとても大切だと思うのです。ある対話集団を形成しようとするとき、社会的地位や経済力にとらわれずに、オープンマインドで対話できる環境を作り出すことってとっても大切だと思うのです。


日本を離れて数年、あらためて振り返ってみると、日本で暮らしていたとき、とても息苦しく感じていた原因は、「社会の主流の価値観からはみ出さない範囲で個性的」でなくてはならず、しかも私自身の個性を演出する手段が消費行為に限られていたことにあると思います。同世代の、同じような経済階層、学歴、趣味の人とつながらなければならないと信じていましたが、そういう発想そのものが自分の視野を狭め、首を絞めていたのです。当時の私のような人が多数派なのかはっきりしませんが、でも、こういう発想の人が一定数を占める社会では、鷲田清一の実践はとても重要なものだと思います。対話を通じてなすことは、他者との違いを見出すこと。私が台湾にいると―その社会環境は特別良いものではないにもかかわらず―ある種の解放感をもつのは、自らと周囲の他者が圧倒的に異なるからだと思います。全くもって異なる人々と日々お付き合いすることはストレスにもなるし、知らず知らずのうちに疲れがたまります。ときどき爆発もします。でも、最初から「違っていて当たり前」と思えることが、私をとても楽にしてくれることも確かなのです。だから、台湾で日本人と付き合いたいなんて、ほとんど思いませんね。


台長: 雪子
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