英語が母語である人には及ばないのかもしれませんが、それでも台湾から日本に帰ってくると、日本語が母語で良かったと思うときがあります。それは、書店で文庫本で国内外の質の高い小説が読めたり、現在日本で議論されているホットなテーマについてニュースや新聞よりも掘り下げて論じている新書に出会ったときです。文庫に比べ、新書は質の今ひとつなものもあり、当たりはずれがありますが、そういう本でも論文の資料にしたり、考えるきっかけを与えたりしてくれるのです。なにより、日本語で書かれているので、お茶の間で、炬燵にあたり、緑茶を飲みながら夕食後から就寝までの数時間で読み終えることが出来ます。
また、文庫本は小さくて軽いので、持ち運びも簡単です。それなりの質の本を気軽にコートのポケットに入れて持ち歩けるということは、私のような無知であり、でも、マスコミの流す情報やありきたりな日常会話には満足できない者にとってはとてもありがたいことなのです。
以下は昨晩読んだ『経済成長という病』の抜粋と簡単なコメントです。政治家、マスコミから一般市民まで、誰もが「経済成長しなければならない」と繰り返しますが、私はそういう風潮に強い違和感をもっていました。この本を読んで、日本にも私と似たようなことを考えている人がいるのだな、と心強くなりました。
以下は抜粋&コメント:
しかし、何故か現実の世の中では、与党の政治家も野党の政治家も、企業家も、経済学者も、メディアも、一般の人々も「経済は成長しなければならない」という観念に支配され続けている。小泉政権下のスローガンは、「改革なくして成長なし」というものであった。(65)
→そうなんです。日本に帰ってきて久しぶりにテレビを見ましたが、「もういい加減に成長しない場合にどうするか」ということを考えて欲しいと思いました。「成長しなければならない」とのうのうと言っているテレビの解説員の顔を見ていると、「この人たちなんにも考えていないな」と思ってしまいます。
しかし、何故か経済がマイナス成長という前提は、禁忌とでもいうように遠ざけられ、よくとも見て見ぬ振りをされてきたのである。(66)
→それは老人問題を「重い」と言って語ることを拒否する発想と同じだと思います。
もし、そうだとすれば、経済が右肩上がりを止めた後の社会の作り方というものを、冷静かつ具体的に考想しておくべきではないだろうか。(69)
→私はそういう話が聞きたいのです。どういうふうに負けたら良いのか、退却したら良いのかということをもっと真剣に追求したいです。
新聞を開けば、毎日世界中のあらゆる場所で起こっている事件や紛争について知ることはできる。しかし、死傷者が何人で、自国の為替の動向がどうなっているかは知ることができても、その背景で、本当は何が起こっているのかについては、ほとんど何も知ることができない。(81)
→そうなんです。
つまり、世界の民主主義の進展に対して、識字化率や人口動態には強いそう関係を有しているが、宗教や文化習慣には民主主義との有意な相関関係は認められないということである。(87)
この途方もない統計数字の旅から導き出した結論は、この仮説は現実と相容れないということであった。つまりイスラムは、識字化率や人口動態とはかかわりなく世界中に分散しており、それゆえに、それぞれの国の民主化の推進に有意な相関はないということを示して見せたのである。(87)
→これは面白いと思いました。
「多様化の時代」という虚構-限りなく細分化される個人(88)
→このタイトル、気に入りました。前、若林幹夫が「分衆」という言葉を使っていたことを思い出しました。
ただ国際経済競争に打ち勝つという理由だけで、経済成長を至上の命題とするような考え方からは、そろそろ脱却したらどうかと申し上げているのである。(90)
私は、経済的な打撃とそれが生み出した社会不安や格差の拡大という現象は確かに大きな問題だが、経済成長至上主義が人々に与えた心理的な影響、それによってこの十数年を風靡した効率主義、合理主義に対する無批判な信仰は、私たちの社会のより深いところに禍根を残すのではないかと憂慮するのである。(91)
私は、しかしこの「多様なニーズ」などという言葉も、実は多様でも何でもなくて、ただ供給側が消費者の欲望を刺激するために作り出した虚構であると思う。ほんとうは、消費者のニーズは多様化などしていない。ただ過剰な商品が過剰な欲望を喚起しているだけであり、消費の選択肢が膨らんでいるように見えるだけである。つまり個人の欲望が限りなく細分化されているだけである。(92)
→これは日本に帰ってきて、私も強く感じました。地方都市では「多様性」が、「DSのソフトを何種類持っているか」「コマ(名前は忘れた)を何個持っているか」ということに置き換えられていると感じました。そして、それは子どもやその母親もそういう発想にがんじがらめにされていると感じました。「多様なゲームをすること」という枠組みの外のものには一切関心がないのです。これを「子どもの成長」と捉えてよいのでしょうか?
多様な働き方というような言い方は、ほんとうは労働力を、商品のように欲しいときに欲しい量だけ自由に使いまわしたいと考えているものが振りまいた虚構でしかないと疑ってみる必要がある。(94)
そう、「この言葉は誰が言っているのか、この言説は誰に利益をもたらすのか」というふうに、主語が誰なのか注意深く読む必要があると思います。何を読むにしても。
今日、多様なライフスタイル、多様な趣味、多様な働き方と言われているものに含まれる多様性、アメリカ合理主義の参照者が褒め称えるダイバーシティーという価値観は、多様というよりは、個々の欲望の目先が細分化し、お互いがお互いを参照する必要のないところで自己決定、自己実現しようともがいている光景だとしか思えないのである。(98)
→日本ではこういう風潮を強く感じます。台湾もこうなっちゃうのかしら?
『ウォルマートに呑み込まれる世界』(チャールズ・フィッシュマン著)
上記の例でいうなら、どちらの会社の経営者も、「会社のために」利益を最大化しようと努力したのであり、株主も世間も、それを期待していたということではないだろうか。ここを看過しては、問題の所在は見えてこない。(113)
もし、倫理観というものを、禁欲的に仕事を遂行するというところに求めるならば、私情を排して、ミッションに忠実であったかれらは十分に倫理的であったとさえ言える。(116)
→確かに、そういうことだと思いました。
アメリカン・グローバリズムの顕著な特徴のひとつは、会社の価値というものを、ネット・プレゼント・バリューという物差しで計ることである。ネット・プレゼント・バリューとは会社の現在価値であり、その中には、会社の信用、社員のロイヤリティー、組織の団結力といった見えない資産は含まれていない。(118)
→台湾の大学もこういうふうに評価されるようになってきました。数字だけで評価するのはナンセンスです。でも、それが改まるのは、いつのことなのでしょう。それを改めるために戦うよりも、そういう評価が及ばない空間を自分でつくったほうが良いと最近は思っています。
よく、会社社長で、町内会の会長で、ライオンズクラブの役員で、詩吟の会の世話人で、少年野球チームのコーチで、マンションの理事長なんていう具合に名詞にずらっと役職を並べている人がいるが、そのご尊顔を拝見すると、ただ自分を大きく見せたいという幼児性が抜け切らぬままに、脂ぎった大人になってしまったような顔立ちをしている。(131)
→これは、台湾でも日本でも全く同じだと思います。研究者でもいます、どんな話をしていても「俺ってすごいでしょ」っていうことを示したいだけっていうことが見え見えの人。私はあほらしいのですぐに退席するか、退席できない場合には目と耳と心を閉じて、時間が過ぎるのをじっと待つことにしています。50歳過ぎていても虚栄心の塊で幼児的な人っていくらでもいますね。
「ホー・レン・ソウ」:
内田さんは、しかしこのシステムは、責任逃れと、ただ仕事を増やすだけの無駄のシステムだというのである。(135)
→これはなるほどと思いました。
世界との競争などと言って、分業の細分化、労働の非正規化、徹底的なコストの外部化などを推進してきたのだが、これらはすべて大企業の短期利潤確保に寄与するための政策であり、零細企業から大企業までを含めた大きなシステムから見れば、生体(システム)そのものの生命力を脆弱化させていると思ったほうがよい。大きなシステムが死んでいくときは必ず末端から死んでいく。(140)
→地方都市の中心部の商店街を歩いて、買い物などをすると「生命力の脆弱化」を強く感じます。こんな感じで本当に良いのかなあと思ってしまいます。
このように明らかにそれとわかる変化もあれば、自分たちでもそれと気がつかないような真理的な変化というものもある。ものごとの価値判断を、損か得か、善か悪か、高価か廉価か、健康的か不健康かといった二項対立的でわかり易い指標で語る傾向もそのひとつかもしれない。一物一価。商品に値札がつけられるように、人の思考にも行動にも上記のようなデジタルな指標が用いられる。別の言い方をするなら、生活のカタログ化、商品化ということになる。(159)
→「空間や物の意義はひとつではない」ということは、台湾の博士課程で勉強するまで気づきませんでした。日本にいたころの私は、企業の宣伝に深くとらわれていたのです。
番組の映像には、謝罪記者会見の模様が映し出され、記者が、事件の再発防止策に具体的なものがないといって病院側に詰め寄る光景が映し出されていた。正義の鉄槌を振り下ろしているマスコミと、おろおろして責任回避しようとしている病院責任者という構図である。(61)
→これも思考停止がもたらす結果でしょう。
教育の現場に、ビジネスの等価交換的な価値観を導入してゆけば、利につながらない学問は必ず貶められることになる。教育投資は、国際競争の場で勝ち抜くという形でかいしゅうされねばならないと考えるようになり、教育を受けるものもそれがキャリアパスにとって有益であり、かつ立身出世の武器になるものだけを選択するようになるだろう。
しかし、これを繰り返していれば、いずれ等価交換的な価値観でしかものを考えることのできない生徒を大量に再生産してゆくことになる。教育というものの恐ろしさは、先生が生徒に授ける知識と同時に、その授け方、方法、プロセスのすべたがそのまま生徒に授けられてしまうということである。私が教育を語る言葉づかいを問題にする理由はここに存している。(182)
→同感です。
近頃のテレビを見ていると、ドラマでもトーク番組でも、あるいはニュース番組でさえ、この脊髄反射的な反応を追う傾向が顕著で、それも常識の範囲を出ない定番的な笑いや、同情や、義憤だけで構成されているように見える。あるのは、「違った見方」ではなく、感情の強度の差異だけである。考える必要のない笑いだけが瀰漫しているのである。(184)
番組が終わり、そのコマーシャルを見ていたら、まずアコム、続いてプロミス、そしてアイフルと続いたのである。私は思わず苦笑してしまった。これらの消費者金融は、無批判な笑いの場に集まってくる若者を掬い取ろうと手ぐすねを引いているように見えたからだ。(185)
文章定位: