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2010-01-04 12:34:21| 人氣269| 回應0 | 上一篇 | 下一篇

日本雑感(二)~(九)

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日本雑感(二)

 

「村上春樹」:「歴女」ブームのところでも少し触れましたが、高崎市内で一番まとまな書店であるくまざわ書店に行って驚いたのは、日本史ブームです。山川出版の高校の日本史や世界史の教科書までが店内の目立つ場所に並べてありました。この日本史ブームと同時に気になったのは、「村上春樹の存在の薄さ」です。村上春樹の『1Q84』は200万部を売り上げたベストセラーだと聞いていたのですが、書店の売り上げベストテンの書棚には7位として飾られていますが、でも、ほんとうに「それだけ」といった感じで、とても存在感が薄いのです。文庫本のコーナーでも、目立つところに平積みされているのは日本史モノばかり。「ヨンダ」の赤い帯がかけられている文庫でも、村上春樹の作品は『神の子はみな踊る』のみ。最初は、「ああ日本史ブームなのね」と思いながら眺めていましたが、だんだん、「これってちょっとおかしいんじゃない?」と思うようになりました。日本史ブームについてはあちこちのテレビ番組で触れられていますが、テレビや新聞などのマスコミでは、村上春樹は「なかったこと」になっているという感じがします。どうしてでしょうか?200万部売れたということは200万人以上の日本人がこの作品を読んだということで、これだけの日本人が同時期にこの作品を読めば、社会になんらかのインパクトを与えているはずだと思って日本に帰ってきたのです。でも、テレビのこの1年を回顧する番組をかなりたくさん見ましたが、村上の『1Q84』 に触れることも、この作品が社会に与えた影響を論じることも、また、村上がエルサレムで文学賞を受賞し、そこでスピーチしたこともちっとも報道されませんでした。昨年の私にとって、『1Q84』はとてもインパクトの強い作品でした。だから、日本に暮らす読者にも衝撃を与えたのではないかと思っていたのですが、マスメディアはあくまでも「なかったこと」にしようとしているようです。私の日本滞在時間は短いし、接する人もとても限られているので、これがいったい何を意味しているのかきちんと調査することは不可能ですが、とても気になる現象です。

 

日本雑感(三)

 

父と母の家(実家):

 

私はこの家で十数年を過ごしたわけですが、最近帰郷して気づくのは、私はこの家の運営やメンテナンスの方式について何も理解していないということです。たとえば、必需品である灯油はどこで買ってきて、どこに保管しているのか。庭や家の中で育てている草木を育てる上でどのようなことに気を配らなければならないのか。毎日どのように面倒を見ているのか。地下倉庫には何をどのように保存するのか。お正月様はいつどのように飾るのか。おせち料理の作り方。障子の張り替え方。ちょっと考えただけでも、知らないことだらけだ。子供時代は、ただ目の前に出されたものを受け入れているだけでした。それらの準備の仕方を習得するよう要求されたこともなかったし、興味を持ったこともなかったのです。私は両親から地方の生活文化をまったく継承していません。遅すぎるけれども、今回はじめて危機感を抱きました。

でも、こういっては何だけど、「伝統の不継承」の責任はひとえに私の怠惰にある、とは思えないのです。両親を観察していると、父は自らの生活スタイルを変えられないにもかかわらず、自分の文化を継承に値するものとは思っていないようです。母にしてもそうです。だから、「私の無能」は、もちろん私が自覚的に行動してこなかったことに大部分の責任がありますが、でも100パーセント私のせい、というわけでもないと思うのです。

故郷に帰って1週間。私が今いる家空間はとても慣れ親しんだもののようだが、家空間の維持という点に焦点を当てて観察すると、自分はまったくのよそ者なのだということがわかります。「よそ者」から「この家空間の維持運営に参与する者」になるためには、それなりの努力が必要でしょう。こういう問題を、同世代の人たちはどのように考えているのでしょうか、ちょっぴり気になります。

 

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日本雑感(四)

 

「外国文学」:

 

1日付の朝日新聞に内田樹のコメントが紹介されていました。1980年代、多くのフランス文学研究者が日本を離れフランスに向かいました。その結果、日本のフランス文学は衰退したのです。以前の研究者は、外国の知識を日本に紹介しなければという使命感をもっていたのですが、今は研究者は自己利益の追求のために研究をしているのです。と、だいたいこんな感じのコメントでしたが、これは私が台湾にいて日本のアマゾンのページを眺めていて感じることと重なります。

たとえば、フランスで大ヒットしたという文学作品が、台湾でも大ヒットするのに、日本では翻訳本が出版されても大いに話題になる、ということがないような気がします。もちろん、日本には台湾よりも多くの作家がいて、選択の幅が広いから、わざわざ外国文学に楽しみを求めなくても、それなりに充実した読書体験ができるということもあるかもしれません。自国の作品を読むだけでも豊かな読書体験ができるというのは、世界中でもごく限られた人々に与えられたある種の「特権」だと思います。そして、それは一人一人の読者によって維持されていかなければならないと思います。

しかし、やはり、国境も時間も人種も民族も宗教も性別も、とにかく何から何まで異なる人々の物語から、自分と共通する体験や感情を見出すという読書体験もとても大切だと私は思うのです。だから、海外でそれなりの評価を受けている文学作品がまったく注目されず、巷は日本史モノばかりあふれかえっているという状況には、違和感を持ちます。書店は売り上げを伸ばさなければいけないから、日本史ブームに合わせて歴史物を前面に出す必要があるのかもしれません。でも、書店には、来店者を啓蒙するという使命もあるはずです。もっと、私たちの盲点をついてくれるような、そういう本の配列をしてくれる書店があればいいのにと思います。まあ、利益と効率の追求が最優先となっているような書店にそのようなことを要求しても無理な話でしょうが

私自身は、今年はもっとたくさんの外国文学の作品を読みたいと思っています。一昨年は123冊、昨年は124冊本を読みました(でも絵本で冊数を稼いだので、総ページ数は2008年には遠く及びませんでした。)。今年もどんなことがあっても最低100冊は本を読みたいと思います。そして、なるべくたくさんの外国の作家の作品を読みたいと思います。外国の友人に勧められたもの、国境を越えて歓迎されているものをたくさん読みたいです。一人で「外国人をしている」ときには、日本人が国内在住の日本人向けに書いたものよりも、国境を超える力をもっている作品のほうがずっと共感しやすいのです。


 

村上春樹が翻訳したGrace Paley『最後の時間のすごく大きな変化Enormous Changes at the Last Minute』は偶然書店でみつけた本ですが、すぐに引き込まれてしまいました。ロシア系ユダヤ人移民のアメリカ人の女性なんて、私とは何の共通点もなさそうですが、読むと痛快な部分がたくさんあって、いいなあと思います。同じ意地悪でも酒井順子や香山リカには全く共感できないのに、共通点のほとんどないGrace Paleyの作品には共感できるのです。

今年はまず、少なくとも村上春樹が翻訳した作品は読破したいです。それから、台湾で中国語訳されているものにも挑戦したいです。

でも、こういう読書体験は、身近な誰かとその喜びを分かち合うことができないのが残念です。あれだけ売れた『1Q84』ですら、まともに感想を話し合える友達なんてたった一人だけなのですから。それだけではなく、ろくに本も読まない人から「あなたの中国語はかなり進歩したようね」とか「私の台湾語が聞き取れないなら勉強したら?」なんて言われた日には、「なぜ私はこんなまともに本も読まないような人から馬鹿扱いされなくちゃいけないのか」と思います。

 

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日本雑感(五)

 

「自己利益追求のための研究」:

(四)の冒頭で内田樹のコメントを紹介しましたが、これを読んでああ、なるほど、と思いました。私が勉強をはじめたのは、80年代以降ですが、そうですね、学校で学んだのは、「勉強すれば自分が得をする」、「勉強とは自己利益の追求のためにするものである」という考え方です。恥ずかしながら、自分が本国人だったときは、こういう主流の発想に違和感を持つことはありませんでした。でも、自分が外国人になると、「自己顕示、自己利益の追求のため」に研究している知識人の講演や文章が、まったく心に響いてこないことが良くわかるようになりました。「自己顕示、自己利益の追求のため」に研究している知識人の生産するテクストは、どんなに美辞麗句を並べ立てていても、外国人は、「俺ってすごいでしょ」というメッセージしか受け取れないのです。

こういうメッセージは、同じ枠組みの中で上昇しようとしている本国人の学生をだますことはできます。だって彼らは同じ価値観を共有していますし、そのメッセージを受け取っている学生たちは、「私たちももっと勉強して彼と同じように富と名誉を独占しよう」と考えている人だから、排他的で自己顕示欲の塊の知識人が発するメッセージを「模範」と捉えるのでしょう。

 

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日本雑感(六)

 

「英語学習」:

年末に家にあった本とノートの整理をしました。高校時代の参考書やノートをひっぱりだしてみたわけですが、英語の参考書の多さ、英語を書き取ったノートの多さに我ながら驚きました。これらの参考書のうちどれか1冊でも丸暗記したら、英語で会話をしたり、簡単な文章を読むことなど難なくできそうです。丸暗記はしませんでしたが、残されたノートを見る限り、英語学習にはそれなりの時間をかけていたことがわかります。でも、こんなに時間をかけていたわりには、これまで一度も英語で読み書き・会話ができるようになったことがないのです。

後の中国語学習に比べれば、英語のほうが学習環境は格段に「良かった」はずなのです。自分が特に努力しなくても、英語に関してはそれなりの学習環境が得られます。それなのに、現在の私は、中国語では読み書きができ、博士課程の授業も受けることができますが、英語はさっぱりです。どうしてなのかな、と本にかかった埃を払いながら考えました。

当時のノートをぱらぱらめくって感じるのは、「誰に向かってこの勉強をしているか」が、英語学習のときと中国語学習のときでは、全く異なるということです。

英語のノートを見て感じるのは、当時の私は、「誰かに私の表現したいことを伝えるために英語を学んでいる」のではなく、英語は「テストの得点をアップする」ためのものでしした。でも、私の英語学習を阻害していた本当の理由は、「『英語を勉強している自分』はちょっと可愛くて、いい感じ」ですが、しかし一方、「あまりにも英語が飛びぬけてできると(たとえば発音が良過ぎる)、クラスで浮いてしまって、クラスメートから排除される」という恐怖だと思います。つまり、当時の私にとって英語学習は、「ちょっぴり知的で可愛く見られるためのツール」に過ぎず、従って、「外国人みたいにぺらぺら」になって、「ちょっぴり知的で可愛い女の子」の範疇を超えてしまうことなんて、あってはならないことだったのです。だから、「あれだけ時間と労力をかけたのに英語ができない」というのは、別に驚くべきことではないのでしょう。むしろ、私はそういう結果を得るために、必死で努力をし、そして、自分の希望通りそれを達成したのです。

三浦展の最新書を読んでいると、私が中学高校時代深くとらわれていた「横並び意識」は、今の若い世代をも縛っていることが分かります。この本に出ていた草男が言っていましたが、彼らにとっては、パリに行くのも熱海に行くのも一緒で、みんなで思い出作りをするのが目的だから、楽しそうな写真が撮れれば場所はどこでも良い。旅行先で何を見るのかというのは、あくまでも副次的なもので、楽しい思い出が作れて、おまけとして何か見ることができたらそれはそれでよい、といった発想らしいのです。日本で生まれ育った者は、日本にいる限り、こういう枠組みの外に出るチャンスはないのでしょうか。それとも、これから日本に仕事がなくなると、私たちの思考の枠組みは変化しないまま、アジアに放り出されるようになるのでしょうか。

日本にいると、社会の内向きなエネルギーに飲み込まれてしまいそうになります。それはそれで、らくちんで心地よいものなのですが、この状態に甘んじていては、精神的にタフになることはできないでしょう。とはいうものの、台湾にいるときには、周りの人はすべてこういうらくちん状態に身を置きながら私にあれこれ言っているのかと思うと、私ばっかり苦労するのはばかばかしい、なぜ自分から進んで不平等な関係に飛び込まなくちゃいけないのかと思うようになりました。

 

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日本雑感(七)

 

「歴ドル」と日本社会の「閉塞感」:

 

私の友人は、昨今の日本の歴史ブームについて、次のような問題があると感じているそうです。

ナショナルな欲望

男らしさの問題

オタク的知の問題

女性にブーム~「かわいい帝国主義」、「心地よいアジア」

 

今の日本史ブームから、「オタク的知の問題」を感じるというのは、私も同感です。日本の新聞やテレビを見ていて、こういう雰囲気を強く感じるのです。それはどういうことかというと、幕末の歴史にとても詳しくなるということに情熱が傾けられるけれど、枠の外のものに対しては全く関心がないということです。このような風潮から、強い排他的な雰囲気を感じるのです。

もちろん、そういう枠組みの中で楽しく知的に豊かな生活を送れるのだとしたら、それはそれで良いのかもしれません。でも、マスコミが全力を挙げて日本に暮らす人々の知的枠組みを狭く限定してしまおうとしていることに、私は不安と苛立ちを感じます。現に、マスコミは、日本社会に閉塞感が蔓延しているとさかんに言い立てています(これはもうかれこれ20年近く言い立てられていることですが)。私も日本社会に蔓延する閉塞感に耐えられず日本を飛び出しのですが、今回帰ってきて、「私が『実感していた閉塞感』とは一体なんだったのだろう?本当にそんなものは存在していたのだろうか?」と考えるようになりました。

確かに景気が悪くて、みんな仕事がなくて、貧困層が激増してといったニュースが多いとは思います。そして、そのことで苦しんでいる人もたくさんいるのかもしれません。でも、地方都市にいると、「暗いニュース」も「閉塞感」もひょっとしたらマスコミが作り出したものにすぎないのではないか、と感じるのです。私の父母も親戚も20年前のバブル最盛期のころから現在まで、ライフスタイルは変わっていません。浮きも沈みもなし、です。40年前と比べたら、農業、牧畜業、養蚕業が著しく衰退していることが分かります。でも、ここには、東京郊外住宅地やその近隣にある商業地で強く感じるような閉塞感はありません。私の故郷では、お金を稼げるときは稼ぎ、稼ぎが悪くなっても必要な食料は自分たちで生産し、ちゃんと新鮮な野菜を豊富に使った食事をしています。デザートの果物だって、みんなでおしゃべりしながら飲むお茶だってちゃんとあります。雨露をしのげる家があって、長年培ってきた人間関係があってこれ以上、一体何が必要なのでしょうか?このようなシンプルな生活を維持していく、楽しむことができれば、景気が悪くなっても、株価が下落しても、GDPがマイナスになっても閉塞感を感じることなく暮らせるのではないでしょうか。

もちろん、このようなシンプルな生活を楽しむ姿勢をもっていても、閉塞感を感じることはあるでしょう。でも、それは、「お金がなくて欲しい物が買えない」ことからくる苛立ちや閉塞感ではありません。そうではなくて、閉塞感を打ち破る鍵は、ひとえに読書にあると思うのです。私たちの既存の枠組みの外で考えられたこと、体験されたことを読書を通じて知ることこそが、私たちの生活を豊かにし、既存の枠組みにとらわれているからこそ閉塞感をもつのだということを、私たちに教えてくれるのです。

話が「歴ドル」からずいぶんそれてしまいました。歴史がブームになること自体、別に悪いことではないのでしょうが、歴史を学ぶことが「他者(外国人でも過去の人でも良いのですが)の視点を学ぶことにつながらず、単に「やっぱ日本って良いよね」(プチナショナリズムですかね?)と慰めあったり、オタク的知の量を他人と競い合うことに血道をあげたりするだけでは、今までと異なった視点で日常生活を見直せるようになるのは難しいでしょう。日本にいても台湾にいても常に感じるのは、私に今できることは、マスコミとは違った視点で、従来とは違った視点で自分の生活空間を眺めてみること、主流の価値観では見逃されている良さを再発見し、そのメンテナンスに自らも参加することだと思うのです。

 

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日本雑感(八)

 

「田舎=停滞!?」:

 

誰もが変化に柔軟に対応できるわけではありません。むしろ、急激な変化にうまく対応できない人の方が多いのではないでしょうか急激な社会の変化によって一番割を食う人々に限って、保守系政治家目線、大企業目線で女子供に説教をしたがるので困るのですがー。だから、「変わらなくても生き続けられる空間」も必要なのです。その「変わらない空間」を維持し続けるのだって、実は結構な労力が必要です。その「変わらない空間」を維持するために労働をする人が必要なのです。

 

Smart Declineという考え方も重要だと思います。

 

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日本雑感(九)

「網路與言論自由」:

 

朝日新聞13日付朝刊に、写真家藤原新也「ネットが世界を縛る」という記事が掲載されていました。私も新聞台に文章を書いていますが、普段は中国語で書いているし、私の新聞台の読者は主に台湾の方だと思って書いているので、日本のネット事情はいまひとつ実感がわきません。記事には、次のような言葉がありました。

 

「まず会話に「間」がない。相手の言葉を咀嚼する前にすぐ同調の言葉を発する。周りの雰囲気を壊さないよう、グループからはじき出されないように注意深く会話し、いい子を演じることが身についている。」

 

もう何年も日本の若い人たちと話すチャンスがないので、実際のところは良く分からないのですが、そういう状況を想像しただけで怖くなります。雰囲気を壊さないこと、すぐに発言者に同調することばかりに労力を使っていたら、同年代のー知的には自分と同じくらい未熟なー小さなグループの中で生まれる発想がすべてになってしまい、その枠組みの外にある知にアクセスすることができなくなってしまいます。私は台湾に行ってから、日本社会が蓄積してきた「豊かな知」に触れ、驚くという経験をしています。私は、そういう経験をするたびに、自らのこれまでの怠惰が、私がその「豊かな知」に巡り会うことを阻んでいたのだと考えていました。でも、こういう記事を読むと、私たちと知的遺産の出会いを妨げているのは、やはり「個人の努力不足」、「個人の能力の問題」だけではないだろうと思うのです。それだけではなく、日常の人間関係が、私たちを知から遠ざけていると思うのです。私の場合、海外に行って、その障害物が取り除けられたことにより、それまで手に取らなかった本に出会い、自由に読み込むことが出来るようになったのでしょう。「どのような知にアクセスできるか/できないか」ということは、語学力の有無も関係するけれど、それがすべてではないのでしょう。その人がどんな階級に属していようとも、実際のところものすごくローカルな人間関係に規定されている可能性が高いと思うようになりました。その人が属するローカルな人間関係の中にいる人たちが権威ある人ならば、その知は「普遍的な、価値のある教養」となり、その権威が不要とみなした知は価値のない、知る必要のないものとなります。でも、その知の枠組みの外にでる努力をしなければ、豊かな(読書)生活とは一生無縁なものとなってしまうでしょう。

 

「大人世界がそういった相互監視の風圧に曝される一方、「学校裏サイト」に見られるように、ケータイやネット環境は監視装置として子供の個人情報や発言をも白日のもとに曝し、子供たちは空気を読んで行動せざるを得なくなった。今では誰でもブログを書く時代だが、それは個人情報を公のもとに曝すということでもある。そのように相互監視システムがはりめぐらされて、同調圧力の風圧が強まる中、今後のコミュニケーションはどうなるか。」

 

こういう話を聞くと、これじゃあ農村のおばあさんたちと変わらないと思います。話題は自分の身近な人の言動ばかり。都市の中産階級は農村の農民を馬鹿にしていますが、都市中産階級のおしゃべりを聞いていると、話題のレベルはまったく同じだと思うことしばしばです。何がおいしい、何がいくら、何が高級、誰が何したという話ばかりで、農村のおばさんだって、都市の自称エリートだってちっとも変わりません。最近読んだ本の話が出来る人なんて、ほとんどお会いできません。

 

「皮肉にもネットの臨界現象が身体性を復活させている、という前向きな見方も出来る。」

 

これは私の新聞台でも繰り返し強調していることです。ネットで情報を収集しただけで、テレビでニュースを見ただけでそれを鵜呑みにしてはいけないと思うのです。自分で現場に立ってみる、自分の五感をフルに働かせて、その場を感じてみることが大切だと思うのです。それは、声の小さい者、持たざる者が自分を守るために身につけなくてはいけない姿勢だと思うのです。

 

「ブログがタイムラグのある『文章』ならツイッターはライブで発している「声」や「呼吸」に近い。そういう意味で、これまでのネットメディアにないある種の身体性を感じる。...だが僕個人は、このツイッターに可能性を感じながら警戒もしている。それは逆に考えると究極の相互監視システムでもあるからだ。...ツイッターが新しいメディアにもかかわらずその使用者の中央年齢値が高く、子供や若年層が意外と参入していないのは、「学校裏サイト」などで彼らが死活問題とも言えるん産をなめているせいかも知れない。おじさんおばさん世代が嬉々としてツイッターにはまっている光景はネット相互監視のダメージの経験のない世代の平和な光景にも見える。」

 

私はツイッターもface bookも好きではありません。最近はMSN messengerもほとんど使用しなくなりました。対面以外の人間関係に興味がなくなったのです。最近、情報の「即時性」に全く興味がなくなったのです。時間をかけてじっくり考えぬいて書かれた文章のみが読むに値するものであって、たんなる思いつきで書かれたもの、単に感情を爆発させた言葉は、どれも読む意味がありません。読めばただただ不愉快になって反論したくなるばかりです。だから、私は備忘録として新聞台に文章を発表しますが、実のところほとんど他人のブログは読みません。ブログやネットニュースを読んで腹を立てている時間があったら、1冊でも多くの質の高い本を読んだほうが良いと思うからです。

台湾の若い人もネット相互監視によって縛られているのでしょうか?日本の若い人よりは縛られていないような気がしますがもっと違うものに縛られているような気もします。私にもし子供がいたら、こういうことに縛られて自由に発想できないような環境で育てるのは大変だなあと思いました。小さなスペースで良いので、日常生活とは異なる、多様な発想に出会える空間をつることが出来たら良いなと思っています。本がたくさんあって、博物館や美術館や劇団の上演情報や、さまざまな社会運動にもアクセスできるような小さな空間を創造したいです。

 

 

台長: 雪子
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