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2006-12-30 19:02:32| 人氣1,152| 回應3 | 上一篇 | 下一篇

十二個上班小姐的生涯故事

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之前看洪婉琦的碩士論文時
認識了《十二個上班小姐的生涯故事》
後來在中央圖書館看了一少部分

幾天前帶同學去女書店發現它
就把它買回來

論文完成了
剩下要準備PPT
但這兩天不想做跟論文有關的事情

昨天翻了《第三空間》
今天晚上就要翻這本書
看完之後 再想跟大家分享對這本書的感想
(不知道什麼時候會實現...)


參考:

洪婉琦 (2001). 台北市娼妓管理辦法之研究(1967-1999). 歷史研究所. 台北, 國立臺灣師範大學. 碩士.

《十二個上班小姐的生涯故事》
作者:紀慧文作
出版社:唐山
出版日期:1998 年 02 月 15 日

http://www.books.com.tw/exep/prod/booksfile.php?item=0010088112

台長: 雪子
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雪子
補充:

我還想看如下論文:

唐筱雯(1998). 台北市公娼之從業歷程及生活世界. 國立臺灣大學建築與城鄉研究所.碩士論文
 
2007-01-02 12:32:54
雪子
補充:

今天看了以下文章覺得
我們也許可以用他(其實是馬克思《資本論》)的觀點來看
上班小姐對孝順的觀念以及小姐和父母的關係

內田指出 義務教育是為了從大人的剝削保護少年兒童而建立的
他說如果沒有保護小孩子的制度 大人(社會)會剝削小孩子
就如十九世紀英國童工
但日本最近的教育改革政策決定在教育空間也要採取市場原理
現在的教育改革論者完全不知道 義務教育本來該有的功能...

參考:
内田樹「さよならマルクス」(再見馬克思)
http://blog.tatsuru.com/
2007-01-20 11:57:20
雪子
補充二:
全文如下:

2007.01.20
さよならマルクス
教育再生会議の第一次報告案がまとまった。
主な論点は
(1)「ゆとり教育」を見直し、授業時間数を増加
(2)いじめる子どもには「出席停止」措置。体罰に関する基準の見直し。
(3)高校で奉仕活動を必修化。
(4)教員免許制度の厳密な運用で、不適格教員を排除。社会人教員を大量採用。企業から学校へ課外授業講師派遣。
(5)教育委員会、学校を外部評価。
(6)家族や古里の価値を考える機運を効用。
などである。
要するに、「学校の中」と「学校の外」を同じ基準で律するということである。
これまで学校には世間には通用しない「学校だけのルール」があった。
世間は弱肉強食・競争原理のガチンコ・ルールで運営されている(はずである)のに、学校はそうなっていない。
そういうローカル・ルールはなくして、グローバル・スタンダードでいこうじゃないか、ということである。
どこかで聴いたような話である。
そう、これはあのなつかしい「小泉構造改革」「グローバリゼーション」の教育ヴァージョンである。
どうして、学校には学校のルールがあり、それは世間のルールと違っているのか、それには何らかの理由があるのではないか、という疑問は教育再生会議の委員諸君の頭にはどうやら浮かばなかったようである。
どうして公教育制度というものができたのか、それはほんの150年ほど前のことであるが、その理由をみなさんすっかりご失念のようである。
公教育制度ができたのは、弱肉強食・競争原理「世間のルール」から子どもを守るためである。
委員のみなさんは『資本論』という本を読んだことがおありだろうか。
19世紀なかばのイギリスの児童労働状況について、マルクスはあるレポートを引用している。
「1866年の児童労働調査委員会の最終報告にはこう書かれている。『不幸にして証言全体から明らかになることは、男女の子供を、誰にもましてまず親から守る必要があるということである。』児童労働一般、そしてとくに家内労働を際限なく搾取するシステムは『幼く弱い子供たちに対して、親が自制心も節度もなく身勝手で容赦ない権力を行使することによって維持されている。』」
ランカシャの工場での児童労働については次のようなレポートをマルクスは引いている。

「幼い児童の小さくて器用な指がなによりも要求されたので、すぐにロンドン、バーミンガム、その他のあちこちの教区の救貧院から、徒弟を連れ出す習慣ができあがった。幾千も幾千もの幼い寄る辺なき子供たちが北部に送り出されたのであって、その年齢は七歳から十三歳ないし十四歳までであった。雇い主は、自分の徒弟たちに委嘱を与え、工場付近の『徒弟小屋』に泊まらせるのが慣わしであった。仕事を監視するために、監視人がおかれた。彼らの関心は児童を極度に酷使することにあった。(・・・)多くの工場地帯、ことにおそらくランカシャでは、こうして工場主に委ねられた無邪気で孤独な児童たちに、最も凄惨な虐待が加えられた。彼らは過度の労働によって死の淵まで追いやられた。」(『資本論』第一巻)
明治維新の頃のイギリスの話である。
1857年におけるリヴァプールの有産階級の平均寿命は35年、労働者の平均寿命は15年であった。
これはもちろん幼児死亡率が高かったせいもあるが、それにしても労働者は若死にしたのである。
マルクスを「資本は生きた労働を吸い取ってはじめて活気づく吸血鬼である」という反資本主義の論へ導いた動機の一つはこの児童労働の実態を前にしたときの彼の憤りであった。
公教育制度が導入されたのも、それと同じ理由からである。
それは「子供を、誰にもましてまず親から守る」ために創られた。
「親」というのは「世間のルール」のことである。
自分の子供を「商品」とみなし、それにどのような「付加価値」を与えれば、「労働市場」でどれだけの値段で売れるかを優先的に配慮するような意識のありようのことである。
公教育の第一の存在理由はそのような弱肉強食の競争原理から子供を守ることであったし、今もそうであると私は思っている。
教育再生会議の結論は、それとは逆に、学校教育の中に競争原理を導入するということである。
子供も教師も教育コンテンツも、すべてを「商品」として「市場」の中で競合させ、コストパフォーマンスのよいものだけが生き残り、そうでないものは「廃棄」される。
国内のすべてのシステムをグローバル資本主義に合わせて再構築しなければ、国際競争に勝ち抜けないというのがその論拠である。
だが、すべての国家を「市場」の中で競争させ、コストパフォーマンスのよいものだけが生き残り、そうでないものは「廃棄」されるというルールは誰が作って、誰が了承したのであろうか?
そのルールを国際基準にすることによって、いったい誰がどのような利益を得るのであろう?
そういう問いを立てる知的習慣はもう日本のエスタブリッシュメントにはない。
教育再生会議の報告を読んで、日本人がマルクスを読む習慣をほんとうに失ってしまったのだということがわかった。
2007-01-20 12:01:32
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