昨晩から降り止まぬ【ふりやまぬ】雨が、陰鬱【いんうつ】な音を立てながら歪【いびつ】な獣道を浸してゆく【ひたしてゆく】。
人がようやく一人通れる程【ほど】の狭き道【せまきみち】の中心【ちゅうしん】に、髪【かみ】の長い女が蹲り【うずくまり】、必死に【ひっし】爪を立て【つめをたて】地を掻いている【かいている】。女の腹部【ふくぶ】から溢れ出した【こぼれだした】赤黒い【あかぐろい】鮮血が、腹【はら】の下の水溜り【みずたまり】へとこぼれ落ちていった【こぼれおちていった】。
(青年【せいねん】)「夜盗【やとう】にでも襲われた【おそわれた】か」襦袢【じゅばん】すら纏っていない【まとまっていない】女を見下ろし【みおろし】、冷たく【つめたく】言い放つ【いいはなつ】青年がいる。
(女)「う、うぅっ…うっ……」
女は顔【かお】を上げ、焦点【しょうてん】の定まらぬ【さだまらぬ】目で青年を見上げた。
(青年)「不運【ふうん】だったな、女。苦しませずに逝【い】かせてやりたいが、最期【さいご】の時はあくまでも定められておる【さだめられておる】。ゆえに…」
もうしばらく苦しんでくれ【くるしんでくれ】と言わんばかりの冷たい瞳【つめたいひとみ】で、青年は女を見下ろす。
(女)「…わ、わたしの……」
女は青年の着物の裾【すそ】に取り縋り【とりすがり】、しきりに何か【なにか】を言おうとする。だが、それ以上は、言葉【ことば】にならぬ様子で。
(青年)「何だ【なんだ】、言い残す【いいのこす】ことがあれば言うてみよ。聞き届ける【ききとどける】のが人でなくても良い【よい】ならば…な」
(女)「げほっ…!がほっ、げほっ!」
女は激しく咳き込み【せきこむ】、口から血の塊【かたまり】を吐き出す。
…そろそろ最期の刻【さいごのこく】が近付いてきた【ちかづいてきた】のだろう。
女は幽鬼【ゆうき】のごとき顔を上げ、ありったけの力を振り絞って【ふりしぼって】訴えた【うったえた】。
(女)「……わっ…わたしの……子を……!ううっ、げほっ!がは…っ!」
言葉を言い終えぬ【おえぬ】うちに、女はおびただしい量【りょう】の血【ち】を吐き出した【はきだした】。
そしてそのままがくりと崩折れ【くずおれ】、二度と動かなくなった【うごかなくなった】。
(青年)「………」
青年はそのまま膝【ひざ】を折り、女の身体【からだ・しんたい】を仰向ける【あおむける】。首筋【くびすじ】から腰【こし】にかけて大きな刀傷【とうしょう】がひとつ、そして腹部に深い【ふかい】刺し傷【さしきず】がひとつ。生々しい【なまなましい】鮮血が噴き出す【ふきだす】傷口【きずぐち】に青年は手を突き入れる【つきいれる】。
暖かい血が青年の手を濡らし【ぬらし】、手首【てくび】までを濡らした。女の傷口を押し広げ【おしひろげ】、腹のずっと奥にある何かを掴む【つかむ】と……鳥の羽音【はおと】に似た【にた】音が、傷口の奥から聞こえてきた。
青年は『それ』を掴んだ手をゆっくりとん抜き取る【ぬきとる】。彼が掴んだのは、人の心【こころ】や精神【せいしん】。『たましい』と呼ばれる【よばれる】ものだった。
赤い羽を持つ鳥の形【かたち】をしたそれは、しきりに羽をはためかせてもがく。
役目を終えた青年が、既に【すでに】魂【たましい】の宿っていない【やどっていない】女の側【そば】を離れよう【はなれよう】とすると、
(少女)「うわぁあっ…うわぁあん……」
青年は足を止め、声の聞こえてくる方を見やる。…声は、草むら【くさむら】から聞こえてくるようだった。
彼が魂を掴んだまま、草むらを掻き分けて声の主【ぬし】を確かめる【たしかめる】と…
(少女)「うわぁああん…うわぁああっ……」まだ幼【おさな】き娘が、顔を土まみれ【どまみれ】にして泣きじゃくっている【なきじゃくっている】。転んだ【ころんだ】時に擦りむいた【すりむいた】のだろか、額【ひたい】には血が滲んでいた【にじんでいた】。
(青年)「…なるほど。わたしの子、というのはこの娘のことか」
あの女はおそらく、夜盗に襲われた時、咄嗟【とっさ】に娘を草むらへ隠した【かくした】のだろう。
いまわの際に【さいに】残した『わたしの子を』という言葉、もしかすると、自分の娘を託そう【たくそう】としていたのかも知れない。
(青年)「残念だったな、女。託す相手を間違えた【まちがえた】ようだ」
青年の姿【すがた】を見る事が出来るのは、死期【しき】が近い人間だけ。この娘の目にはおそらく、青年の姿は見えていない。
(少女)「うわぁあああん…あぁああっ……」
(青年)「………」
青年が娘の側を離れようとすると、手の中にある魂が暴れた【あばれた】。
(青年)「…そなたの娘は、まだ死すべき運命にある訳ではない。このまま打ち捨てておいても【うちすてておいても】、な」
青年は女の魂に言い聞かせるが、彼女は諦めよう【あきらめよう】としない。青年の手の甲【こう】に爪を立て、翼が折れそうな【おれそうな】くらいにはためかせている。
(少女)「………」
ふと、少女が泣くのをやめて顔を上げた。
(少女)「……母さま【かあさま】?」
幼子【おさなご】特有の鋭い【するどい】感覚で、母の魂の匂い【におい】を感じ取ったのか。見えない筈【はず】の青年の手元【てもと】へと視線【しせん】を注ぎ【そそぎ】、白き羽を持つ魂へと呼びかけたのだ。娘の呼びかけに呼応【こおう】するように、女の魂はなお足を振り何かを訴えようとしている。
(少女)「母さま……そこにいるの?」
震える【ふるえる】掌【てのひら・たなごころ】を伸ばし【のばし】、恐る恐る【おそるおそる】魂へと触れよう【ふれよう】とする。当然ながらその手は空を掴むだけで、魂に触れる事は出来ない。
(青年)「早くここから去れ【され】。血の匂いを嗅ぎ付けて【かぎつけて】、山犬【やまいぬ】が集まってくる【あつまってくる】」
忠告【ちゅうこく】のつもりで呼びかけるが、青年の言葉は届かない。
(少女)「母さま……」
手を差し伸ばし母の魂を探ろう【さぐろう】とする娘の瞳、光は無い。
(青年)「目が…見えぬのか」
盲目【もうもく】の身【み】では、ここから離れて人里【ひとざと】へ辿り着く【たどりつく】のも難しいかも知れない。
(青年)「母が死んだのは不運だったな。だが、そなたはまだ死する運命には無い。もっとも、山を降りる【おりる】前に狼共【おおかみとも】に腕や足を食いちぎられぬ【くいちぎられ】という保証【ほしょう】も無いが…」
彼は、掌の中でやかましく騒ぎ立てる魂と娘とを交互【こうご】の見やった。
(少女)「母さま、どこかへ行っちゃうの?」
(青年)「………」
(少女)「ねぇ母さま、どうして何も言ってくれないの?そこにいるんでしょう?」
少女は青年の手の中の魂を手に取ろうとするが、空【むな】しく空を掴むだけだ。
(青年)「…縁【えん】があれば」
(少女)「……?」
(青年)「縁があれば、来世【らいせ】でまた母に巡り逢う【めぐりあう】事も出来るだろう。これは永遠の別れ【えいえんのわかれ】だという訳【わけ】ではない」
少女には決して届かぬ言葉を呟いた【つぶやいた】後【あと・のち】、青年は少女から離れて大きく地を蹴って【けって】跳躍【ちょうやく】し、振り返らずにその場を去った。
その後、少女がどれだけの時間母を呼び続けたのかは分からない…。