9月26日
さて今日は土曜日、ゆっくりと家で映画でもと思い、HDDに録画したライブラリを見てみると、カナダ映画の「天国の蒼い蝶」というのがありました。日本語吹き替え版でしたので、気軽に見始めましたが、五分と見ないうちにやめてしまいました。いろいろと含蓄のある小説なのでしょうが、最初のところが引っかかります。
スタートは、昆虫好きな足の悪い子供が、母親に連れられて著名な昆虫学者のところに行きます。その母親が、突然その昆虫学者に、この子は余命が短いので、何とかいう青い蝶を見に南米?へ連れて行け、というところから始まります。その昆虫学者は「とても気の毒だが、その蝶の季節はもう終わりだ。」というと、母親は、「あなたの本ではまだ一週間ある。」と食い下がります。昆虫学者は「かわいそうだが、足が悪くては熱帯雨林へ行くのはたいへん」の趣旨のことを言うと、その母親は突然、「あなたに子供がいれば、、」と、”あなたは血も涙も無いひどい人”的なことを、昆虫学者に畳み掛けます。このあたりで、ちょっとパスしてしまった。
まあ、映画のプロットとしては、母親の真摯さを訴えたい部分なのだろうが、昆虫学者にも予定があり都合がある。見ず知らずの親子のために、自分の時間を割くことができないからといって、非道な人間、呼ばわりされる理由はないように感じる。もっと厳しいことを言えば、明日死ぬからといって、今日は何をやってもいい、ということではないと思う。余命が短いからといって、家族でもない周りの人が何もかもそのを人中心にしてやらなければいけない、ことは無いと思う。以前からうすうすそうは思ってきたが、弟を亡くしてとくにそう思う。彼は、できる範囲でできることをやった。未練は多くても、それで満足すべきだと考えていただろう。
こういったやってもらって当然、やってくれない人はという考え方は、自分は不幸な弱者だから自分の希望はお前がかなえるべき、ということにつながり、結局はお互いのためによくならない。最近大陸の都市部では、道で転んだお年寄りを助けないという。助けた人を加害者と訴えて、金をむしる老人がいるからだそうだが、哀しいことだ。
念のため付け足しておきますが、体の不自由な人や余命の短い人にはとてつもなく優しくしなければいけない、と私は個人的には思っていますし、そうしています。あくまでも客観的に見てということです。声高にして意見を述べるような話ではないですが。映画の評価を見るに、夢をかなえることの必要性と奇跡、の評が多いが、感謝礼節というのも大事だと思う。大人なんだから。弱者は弱者であるが故に救済されるのであって、それが正義だからではない。そこのところだけは、履き違えないようにしないといけないと思う。
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