今日突然、大学の頃の友人から電話がありました。何年ぶりか、という電話のあと、ちょっと感傷的になって、大学時代に書いた散文をいくつか読んでいました。ここに載せるのは、中でもわりと気に入っているものです。文章もオリジナルのままなので知悉ですし、12月の風景なので、ちょっと時期はずれなんですが、感想を聞かせてもらえるとうれしいです。
日本語ですみません。それと、もちろんこれは創作です。
点景 No.0268 1985年12月作 M.I生
その日、私はとても珍しい光景を見た。
珍しいと言うのは、物珍しいと言うのではなく、何かとても懐かしいような、暖かい光景であり、それに出会ったのが私の田舎の三本木の町なんかじゃなく、東京のどまんなかだったのがとても珍しいことだった。
東京に出て来てちょうど丸五年になる。
三本木、今では十和田湖町という東北の小さな町を私が後にしたのは、高校を卒業した年の春だった。希望に胸を膨らませながら、電車に乗った私を待っていたのは、東京、の持っている現実だった。田舎育ちの、もの知らずの娘には、その現実は余りにも重く、そして辛かった。いろいろと、書き並べれば、ごくあたりまえの、上京娘の苦労話になるから特に書かないけれど、とにかく、ぼろぼろになっていく自分を、何か他人の目で見ているような、そんな毎日が過ぎて行った。
それでも人間というのは不思議なもので、だんだん辛いことも辛くなくなり、お酒とタバコで寂しさを薄めることを覚え、男の子の温もりも覚え、いっぱしの東京人のような顔をして、新宿あたりを歩けるようになっていった。そのかわりに、もう私は、三本木の町を少女の頃のようには歩けない。
最初、その娘は昔の私、そう、東京へ出てきたばかりの田舎の娘かと思った。
彼女は、地味なセーターに綿のスカート、そして毛糸の帽子をかぶって三丁目の歩道の角に腰掛けて、缶コーヒーを口に運んでいた。地下鉄の出口から上がってきた私の目に飛び込んで来たのは、彼女が首に巻いている暖かそうな赤いマフラーだった。小春日和の、日溜りの中にズックの鞄を置いて、彼女はコーヒーを飲みながら歩行者天国を行く人たちや、交差点を横切って行く都電をながめていた。彼女に興味を持った私は、その場に立ち止まると人待ち顔でタバコに火をつけ、注視するとなく彼女の姿を視覚のすみに置いた。
高校生ぐらいかな、そういえば私の高校ももう、冬休みに入っているかも知れない。そんなことを考えながら、私はタバコの煙をゆっくりと流していた。12月も半ばを過ぎようとするというのに、風もないうえ、日溜りはとても暖かく、冬の淡いコントラストを映し出す光の中に、師走の険騒を乗せた音楽が時折耳をくすぐってゆく。
見ていると、彼女はその鞄からおもむろに、やりかけの編物を取り出すと、その場で網棒を動かし始めた。まるで、テレビドラマか映画の一場面のように、そう、行った事はもちろんないけれど、テレビに映し出されるロンドンのピカデリーサーカスやニューヨークのロックフェラービル前の広場の冬景色に点景として加えられている女の子、そんな印象を持たせられる姿だった。そしてそれは、私には一生かかっても身につけることができないことを思い知らされる、一種独特の、そう街の娘の雰囲気だった。
外人の娘かしら、
私がそんなことを考えていると、歩行者天国の雑踏の中に、店に荷物を積んで来たトラックがゆっくりと入ってきた。運転手は、充分に気を付けていたのだろうけれど、急にそのバックする車の後ろに、小さな女の子が擦り込んでくる。ローラースケートを履いた彼女は、おもちゃ屋の前で行われているアトラクションに気を取られてか、車は目に入っていないらしい。
危ないな、
道を行く誰もがそう思ったそのとき、さすがの私も足を踏み出そうとした。しかし、私よりも一瞬早く、かの娘が飛び出して、その女の子を抱きかかえると、歩道へ連れだした。
「ちゃんと見てないと、あぶないよ。」
と、女の子の頭を撫でながら、彼女は静かに言うと、その子も素直に諾いていた。分別のない小さい子を、大きな声で威嚇することなく諾かせるのは、これはたぶん、一つの能力なのかもしれない。女の子は、ぺこりと頭を下げると、ローラースケートを走らせていった。彼女は、何もなかったかのように、再びさっきの場所に腰を下ろすと、編棒を動かし始めた。
人々は、そんな光景には目もくれずに通りすぎて行くが、私はその様子を見ていて、なにかとても嬉しくなってしまった。どこにでもありそうでいて、このところなかなか見ることが出来ない、そんな景色に出会った私は、彼女に話しかけてみたくなった。ちょっとでもいい、一言でもいいから、
そう思って、私が一歩踏み出そうとしたとき、地下鉄の出口から誰かが駆け登ってきた。大学生ぐらいのその男性は、どこかの学校のジャケットを着て、階段を駆け上がって来ると、階段の上に立っていた私に、「すみません、」、と言って、私の横をすり抜けて光の中に出た。彼は、ちょっと立ち止まったが、すぐその娘に気がついて、駆け寄ると背中を叩いた。
背中を叩かれた娘は、振り返るとその顔にぱっと輝くような喜色を浮かべた。でも、次の瞬間彼女は立ち上がると腕を組み、ふくれた顔をしてみせた。何も言わなくても、そのくりっとした大きな瞳が、表情豊かに言葉を並べている。男は、頭を下げていたが、急にいたずらっぽい顔をすると、彼女の頭からその毛糸の帽子を取った。
私は、あっ、と息を呑んだ。
何の変哲もない帽子の下から、冬の柔らかい陽光の中に、映画でみるような細い金色の長い髪が広がった。
この光景には、さすがに道行く人の幾人かは振り返った。
ほんとうに、映画みたいな、
そんな私の思いになどかまわずに、二人ははしゃぎながら伊東屋さんの方に向かって行った。
甲高い汽笛の音に顔を上げると、ちょうど有楽町の新幹線ガードをソウルからの国際列車が東京駅に到着するところだった。焦げ茶のラインの入った白い車体が、ゆっくりとガードを渡って行く。
「もう、そんな時間、」
日に一本の列車を眺めながら、私は時計を見た。
昨日喧嘩した彼氏にも、今日はなんだかとても優しく出来るような気がしてきた。
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