この新聞台の中でも、何回か触れてきていますが、日本は他国に比べると、能力に関わらずに待遇平等をとる社会です。(多くの私たち日本人は、そうは思ってはいませんが。)ですから、大学のランクに関わらず、卒業生のレベルはそれほど差がありません。すなわち、旧帝国大学を出た学生でも、地方の私立大学を出た学生でも、それほど能力に差があるわけではないということになります。これには、日本の入学試験が、記憶の蓄積を問うだけで、全体の能力を問うわけではないことと、大学に入ってしまえば、ごくごく一部を除けば、まあ、のんびりしてしまうことに原因があるかと思います。
しかしながら、会社に入って5年も経つと、ほとんど差がなかった学生の間に、やはり差が生じるようになってきます。これは、一部で言われるように、「やはり、良い大学を出た人間は、潜在的に能力がある。」というのではないと思います。
悲しいかな、能力に関わらず、企業は学生の出身大学によって採用する学生を選びます。それは、良い大学=潜在能力がある、という妄想なのだと思いますが、現実には企業はそうやって採用する学生を選別していきます。そこで、良い大学を出た学生は、大きな会社に入ることになりますが、大きいところ(大きいことがよいというのではありません。企業として力がある会社ということです。)は、社員への教育能力もありますから、たいしたことのない学生でも、それなりに育てていくことができます。(反論はあるかと思いますが、これは現実だと思います。)
発達心理学では、以下のように言われています。
発達は順序をおって展開するものであるだけに、発達の初期に特定の経験がうばわれて、ある行動が発現しなかったり、知的能力の定着がおくれたりすると、それによって次に予定されている行動の発現や能力定着がおくれ、それによりまた次の行動がおくれるというふうに、次々にマイナスが累積されていくことになる。このような発達的変化の固有の特徴から、初期経験の重要性が認識され、人間の幼児にとって臨界期はあるのかという問題をめぐる一群の研究があらわれる。臨界期を設定するのは遺伝子プログラムであるが、それを機能させて実質的な変化をひきおこすのは経験であるから、この議論そのものが遺伝・経験相互作用説の上にたっていることになる。"発達心理学"Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 99. (c) 1993-1998 Microsoft Corporation. All rights reserved.
そして、10年も経つと、良い大学を出た人と、田舎の大学を出た人とに大きな差がついていきます。10年前はいくらも違わなかったのに、10年後にはお互いがそれぞれの持つものさしで比べて、お互いを信じられないくらいの異文化、異なる生き物、のように感じてしまうことになります。
このことだけを見て、「やはり良い大学を卒業した人は違う。」と考えてしまうのは、ちょっと過ちです。これはただ単に、10年間の環境が異なっていたからだけにすぎません。出身学校の違いで、教育の機会に恵まれただけに過ぎないと思います。これは日本の社会で、それぞれ個人にはそんなに差がない、という暗黙の了解を生み出す原因にもなっており、それが社会の安定を生み出してもいます。
しかしながら、日本もいよいよ能力社会になろうとしています。そのなかで、この、教育システムでやっていけるのかどうか、ちょっと考えます。
私は田舎の国立大学を出ましたから、早いうちに卒業しておいて良かった、と思うことになるのでしょうか?
^_^
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