イチロー(本名:鈴木 一朗〈すずき いちろう〉、1973年10月22日 - )は、シアトル・マリナーズに所属するプロ野球選手。ポジションは外野手(主に右翼手)。
日本プロ野球とメジャーリーグのシーズン最多安打記録を保持しており、驚異的にヒットを量産することから「安打製造機」と称される。また、米国においては、その巧みなバットさばきの様子から「wizard[1](魔法使い、魔術師)」と呼ばれる。
[編集] 経歴
[編集] 日本プロ野球
1991年、ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)に入団した。
入団後は2軍で首位打者を獲得しながらも、土井監督や小川亨コーチなどの一軍首脳陣から振り子打法を否定され、足の速さを活かすようにと内野安打狙いのバッティングや山内一弘コーチ式の内角打ちを指示されるが、意見や指導が合わず、当時豪腕の名をほしいままにしていた野茂英雄からプロ初本塁打(1993年6月12日、長岡市悠久山野球場)を放ったもののその日に2軍降格を言い渡されるなど、1軍に定着することはなかった。
2軍生活を余儀なくされていたイチローは、2年目の秋に、河村健一郎2軍打撃コーチと二人三脚で日本時代のイチローの代名詞ともなる振り子打法を作り上げた。
1994年、監督に招聘された仰木彬はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと、登録名を当初の「鈴木」から「イチロー」に変更させ、1軍の2番打者に抜擢する。イチローは1軍打撃コーチの新井宏昌にも理解され、レギュラーとして活躍。4月末ごろには1番打者に定着し、日本新記録の69試合連続出塁、日本球界初となるシーズン200本安打の偉業を達成。最終的に210安打(日本記録)まで延ばし、パ・リーグ新記録となる打率.385(後の2000年に自らパ・リーグ記録を更新)で首位打者を獲得。また、この年から打撃の正式タイトルとなった最多安打の初代獲得者となった。
1995年、主に1番打者を打ちながら、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得し、「五冠王」。打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上初(現在も唯一)、全イニング出場での首位打者は1969年の王貞治に次ぐ史上2人目の快挙。またこの年、イチローはリーグ3位タイの25本塁打で、本塁打王の小久保裕紀とは3本差であり、日本球界・メジャーリーグともに前例のない打撃タイトル独占(六冠王)にあと一歩であった。そのほか、リーグ2位の長打率や当時のパ・リーグ記録となるシーズン18死球に加え、当時の日本タイ記録となるシーズン初回表先頭打者本塁打5本を残し、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。2年連続となる正力松太郎賞も受賞した。
1996年は開幕から前半戦まで1番打者として出場し、オールスターゲーム第1戦では初回先頭打者初球本塁打(オールスター史上3人目、パ・リーグ選手では史上初)を放った。第2戦では投手として登板し、高津臣吾を遊ゴロに打ち取っている。後半戦からは打順を変更され、3番に固定。前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いたが、3番になってからは調子を上げ、固め打ちが目立つようになった。最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、猛打賞を26回(日本記録)、1試合4安打を8回記録(達成当時、日本新記録。現在はパ・リーグ記録)した。また、9月23日の日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)では、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ2塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「地元・神戸での胴上げ」を実現させた。さらに日本シリーズ第1戦では、延長10回に読売ジャイアンツ・河野博文投手からライトスタンドに決勝本塁打を放つ。チームは阪急時代の1977年以来19年ぶりの日本一に輝き、イチローは優秀選手賞を受賞した。
1997年から1999年までは主に3番打者として出場。1997年6月に209打席連続無三振の日本記録を樹立、その後の対日本ハムファイターズ戦で下柳剛(現:阪神タイガース)から三振するまで216打席連続無三振をマークした。三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振は3つである。
1998年、張本勲の4年連続を抜いて、日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成。また同時に、5年連続・通算5回目となる最多安打を記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位)。
1999年4月20日、対日本ハムファイターズ戦で金村曉から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。7月6日の対西武ライオンズ戦では松坂大輔から通算100号本塁打を打った。同年はオールスターゲームの時点で19本塁打を記録するなど、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハムファイターズ戦において下柳から右手に死球を受け、負傷。残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年の開幕戦から続けていた連続試合出場が、パ・リーグ歴代4位の763でストップした。
2000年、プロ野球歴代2位のシーズン打率.387を記録。この年は開幕戦から4番に指名され、同打順で毎試合スタメン出場していたが、8月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回に三塁線へファウルを打った際に右わき腹を痛め、途中交代。その後出場を果たしたのは、神戸でのオリックス本拠地最終戦である10月13日の1試合だけで、9回に守備固めとしての出場であり、打席には立たなかった。イチローがメジャーリーグに挑戦するため日本球界を去ると記者会見をしたのが前日の10月12日であったため、この試合終了後、イチローはファンの大声援に手を振って応え、ファン一人一人と別れの握手をしている。
1994年から2000年まで7年連続で首位打者、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。7度の首位打者は張本勲と並ぶ日本記録、7年連続首位打者は史上初。さらに、1994年から1996年までは連続MVPであり、3年連続MVPは他に山田久志しか達成していない快挙である。
[編集] メジャーリーグ
- 2001年
- ポスティング制度を利用してメジャーリーグの球団、シアトル・マリナーズに移籍する。メジャーリーグ移籍に関して本人は2000年に移籍と決めていたが、恩師である仰木彬監督に「もう1年だけ一緒にやろう」と引き留められ、断ることができずにチームに残ったという裏話がある[要出典]。
- 当初は、日本人野手がメジャーで通用するのか疑問視する声が日米問わず多かった。あるマリナーズの番記者は、日本でのイチローのビデオを見て、「ピッチャーが投げるすべての球に反応して動き、バッターボックスでふらついているようにも見えた。球をたたくように打ち、すぐさま走り出すスタイルは、メジャーリーグの投手と野手が相手では歯が立たないだろうと思われた。そのうえ、パワーもなさそうだった」と述べ、当時のマリナーズの監督だったルー・ピネラも、「打率は2割8分から3割、盗塁は25から30、まあ得点は稼いでくれるだろう」とそこまで大きな期待はしていなかった[2]。「51」という背番号をつけることになったときにも、当時のマリナーズには「背番号51」はランディ・ジョンソン(1998年まで在籍)の番号というイメージがファンの間で認識されていたために、「ランディの功績を台無しにする」「ランディを侮辱している」という理由であまり好意的には見られてはいなかった[要出典]。しかしその後の活躍で、このことを取り沙汰するファンは誰もいなくなった。前述の番記者も、シーズン開幕から1か月半後の『シアトル・タイムズ』紙に、「お詫び」のコラムを掲載している[2]。
- 開幕戦からマルチヒットを放ち、その後も順調にヒットを積み重ねた。MLBオールスターゲームでのファン投票では337万票を獲得し、日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となるなど、アメリカにおいても評価されるようになる。この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打(当時歴代9位)を放ち、メジャーリーグのルーキー最多安打記録を更新するとともに、アメリカンリーグの新人王・MVP・首位打者・盗塁王となった。首位打者と盗塁王を同時に獲得したのは1949年のジャッキー・ロビンソン以来2人目、新人でアメリカンリーグの打撃部門を制したのは1964年ミネソタ・ツインズのトニー・オリバ以来2人目。安打試合数の135試合はロジャース・ホーンスビー、チャック・クライン、ウェイド・ボッグス、デレク・ジーターら4人と並ぶメジャータイ記録で、単打192と打数692はアメリカンリーグ新人記録。また、新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローのほかには1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバ(首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア(本塁打王)以来6人目である。当時、イチローの安打数が200を超えたあたりから、メディアでは「ルーキー最多安打記録」が話題になったため、リーグ機構が1947年に制定したルーキー資格を基に、過去の打撃記録を調べ直した。結果、当初1927年のロイド・ウェイナーの「223安打」と思われていたルーキー安打数記録が、1911年にジョー・ジャクソンが記録した「233安打」に訂正される事態も起きている。
- そのほかにも、リーグ2位の得点(127)を残し、得点圏打率(.445)、2死得点圏打率(.460)、2死得点圏出塁率(.558)、走者ありでの打率(.420)では両リーグを通じて1位を記録した。なお、新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を同時に手にしたのはメジャーリーグ史上、イチローのみである。このように記録的な活躍でチームのプレーオフ進出に貢献し、日本の一流打者(野手)がメジャーリーグでも通用することを証明した。
- 2002年
- 警戒され、リーグ最多の27敬遠を記録する。四球も前年の30から68に倍増した。リーグ4位の打率を残し、208安打を打ったが、最多安打にはあと1本及ばなかった。
- 2003年
- 5月にはメジャー通算500本安打を達成。7月には、新人から3年連続でオールスターファン投票両リーグ最多得票を獲得した。新人からという注釈を外してもケン・グリフィー・ジュニア以来2人目の快挙である。
- 2004年
- 84年間破られることのなかったジョージ・シスラーの257安打を5本上回る262安打を記録した。同時に打率.372を残し、メジャーでは3年ぶり2度目の首位打者にも輝いた。ジョージ・シスラーの記録は年間154試合の時代の記録で、イチローは160試合目での到達であったため[3]、米国内では少なからず疑問視する見方もあったものの[4]、この記録は内外で高い評価を受け、アメリカでは多くの新聞でその偉業を称える記事が掲載され、『USAトゥデイ』紙にもバリー・ボンズが700号ホームランを打った時以来の全面広告でメジャーリーグが祝福の意を表した。また、史上8人目となるコミッショナー特別表彰を受け、アメリカ野球殿堂には特別ブースが用意された。日本からは正力松太郎賞特別賞が授与された。その際「打撃の神様」の愛称で知られる川上哲治に、「精神的にも技術的にも、『野球の神様』と言えば彼じゃないかと思う」と賛辞を送られている。また、2度目の国民栄誉賞の授与も打診され(しかし、2度とも本人が辞退)、アジアの国々や野球に関心の薄いイギリスでも異例の取り扱いで新聞等のメディアがその記録達成を伝えた[5]。
- この年は得点圏打率(.372)、得点圏出塁率(.484)、2死得点圏打率(.472)、2死得点圏出塁率(.600)、走者あり打率(.364)、走者あり出塁率(.439)、対左投手打率(.404)、敬遠数(19)でもリーグ1位を記録。また、7月にシーズン2度の月間50本安打を達成、ジョー・メドウィック以来68年ぶりの快挙を成し遂げる。8月に球団記録のアレックス・ロドリゲスの月間54本安打を更新し、68年ぶりにロイ・ウェザリーの月間56本安打のタイ記録に並んだが、月間67本安打のタイ・カッブには届かなかった。なお、正式な記録ではないが、7月18日から8月17日の間にヒットを67本打っている(この間の打率は.508)。通算4度の月間50本安打はピート・ローズに並び(メジャー記録はジョージ・シスラーの10度)、他に、2か月連続50本安打とシーズン3度の月間50本安打の記録を更新した。さらには9月、ビル・テリーの連続4シーズン918本安打を更新した。
- 2005年
- メジャーでは自己最多となるシーズン15本塁打を記録した。また、通算記録では日本人選手として初めてメジャーリーグ1000本安打に達した。これは出場696試合目での達成であり、1933年のチャック・クライン(683試合)、1932年のロイド・ウェイナー(686試合)に次いで1900年以降3番目のスピード記録となった。
- 5年連続100得点30盗塁は6年連続のジョー・モーガン、タイ記録のリッキー・ヘンダーソンに次いで3人目(19世紀の記録を入れるとビリー・ハミルトンの10年連続が最高)。史上初のデビューから5年連続200本安打という記録も達成した。5度の200安打100得点30盗塁はタイ・カッブ以来89年ぶり、連続記録としては史上初。また、チャック・クラインの連続5シーズン通算1118安打を抜いた。
- 2006年
- 5月、メジャー通算200盗塁を達成、その翌日には日米通算400盗塁を達成した。6月、日米通算2500本安打を達成。7月26日に戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続6シーズン通算1274本安打を抜いた。8月16日にロジャース・ホーンスビーが持つ連続6シーズン最多安打1296本を超え、8月29日にはメジャー通算400マルチヒットを928試合目で達成。これは6年目ではメジャー最速。9月には19世紀以降最多となるウィリー・キーラーの連続6シーズン通算1313本安打を抜いた。9月7日に日米通算800マルチヒットも達成。9月9日にはジョージ・シスラーが持つ6シーズン最多安打1317本安打を超え、その一週間後の9月16日、カンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーリーグ史上3人目となる6年連続200安打を達成した。なお、イチローはこの試合において三盗を成功させたことで33連続盗塁成功となり、アメリカンリーグ新記録も達成。また、満33歳になるこのシーズンに自己3番目の記録となる45盗塁を残し、盗塁成功率.957を記録した。1シーズンの連続盗塁成功は39まで伸ばしたが、ビンス・コールマンの1シーズンのメジャー記録である44連続盗塁成功には及ばなかった。この年、メジャー通算100敬遠と日米通算200敬遠も達成した。
- 2007年
- 5月3日、41連続盗塁成功を達成して、シーズンを跨いでのアメリカンリーグ連続盗塁成功記録を更新(従来の記録は、ティム・レインズの40)。5月16日にアメリカンリーグ記録を45まで伸ばす。5月18日の対エンゼルス戦、7回裏に先頭打者のイチローがヒットで出塁。この場面でベンチからヒットエンドランのサインが出て、イチローはヒットエンドランのタイミングでスタートを切るが、2番打者のホセ・ビドロがサインを見落として投球を見送り、ヒットエンドランに失敗。これが盗塁死扱いになってイチローのアメリカンリーグ連続盗塁成功記録は「45」でストップし、ビンス・コールマンの連続盗塁成功50のメジャー記録更新は目前で逸した。7月5日、56試合中53試合に安打を放ってジョージ・シスラーやタイ・カッブに並ぶも、56試合中56試合に安打を放ったジョー・ディマジオや56試合中54試合に安打を放ったデレク・ジーターには及ばなかった。7月8日、戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続7シーズン通算1479本安打を抜いた。
- 7月11日、7年連続で出場したオールスターゲームにおいてサンディエゴ・パドレス所属のクリス・ヤング投手からオールスター史上初のランニングホームランを放った。同試合ではこのランニングホームランを含めて3安打を記録し、オールスターMVPを受賞した。7月17日には、1901年以降最多となるビル・テリーが持つ連続7シーズン最多安打1487本安打を超え、8月17日に19世紀以降最多となるジェシー・バーケットが持つ連続7シーズン最多安打1526本安打を超えた。9月3日のニューヨーク・ヤンキース戦ではロジャー・クレメンス投手から本塁打を放ち、7年連続200安打(史上3人目)を達成。同年はセンターとしてシーズンを過ごしゴールドグラブ賞を受賞したが、シーズン途中でコンバートなくライトとセンター両方でゴールドグラブ賞を獲ったのは、アンドレ・ドーソン以来であった。
- 2007年シーズンは、マグリオ・オルドニェス(デトロイト・タイガース)との激しい首位打者争いに敗れはしたものの、リーグ2位の打率.351を記録(21世紀以降のアメリカンリーグで、打率.350以上で首位打者になれなかった打者はイチローが初めてである)。また、リーグ9位の出塁率.396に加え、リーグ2位(125打席以上)の得点圏打率.397、リーグ1位の二死得点圏打率.431、さらに満塁では13打数8安打、打率.615という驚異的な勝負強さを発揮し、2001年以来2度目となるシルバースラッガー賞を受賞した。この年、ゴールドグラブ賞とシルバースラッガー賞を同時に受賞した選手は、アメリカンリーグではイチローとプラシド・ポランコ(デトロイト・タイガース)のみである。
- 2008年
- 6月7日、戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続8シーズン通算1666本安打を抜いた。6月11日にメジャー通算300盗塁を達成し、その5日後に日米通算500盗塁を達成。6月21日には1901年以降最多となるポール・ウェイナーが持つ連続8シーズン最多安打1680本安打を超え、7月27日には19世紀以降最多となるウィリー・キーラーが持つ連続8シーズン最多安打1719本安打を超えた。7月30日、テキサス・レンジャーズのルイス・メンドーサ投手からレフト前に安打を放ち、日米通算3000本安打を達成。日本選手での3000本安打は張本勲以来2人目の快挙である。2175試合目に達成したため、2135試合で達成したタイ・カッブには及ばなかった。
- 9月17日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でショートへの内野安打を放ち、8年連続200安打を達成。ウィリー・キーラーが1894年から1901年にかけて記録して以来、107年ぶりの記録を達成した。9月26日のオークランド・アスレチックス戦では8年連続100得点を達成。同一シーズンでの200本安打100得点を8回記録したのはルー・ゲーリック以来2人目、連続記録としては史上初(19世紀の記録を入れるとウィリー・キーラーも達成している)。シーズンを両リーグトップタイの213安打で終了し、メジャータイ記録となる3年連続最多安打(史上7人目)、史上初となる3年連続両リーグ最多安打を記録した。また、シーズンを終えての連続記録を「打率3割」「200安打」「100得点」「30盗塁」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」について8年連続と伸ばした。
[編集] 世界大会
「オリンピックはあくまでもアマチュアのための大会。自分はプロ」という考えで[6]、オリンピックなどへの参加を断り続けていたが、2006年に初開催されたワールド・ベースボール・クラシックにはメジャーリーグ主導によるプロの初の世界大会とあって進んで参加した。1次リーグこそ本調子でなかったものの、2次リーグ、準決勝、決勝と試合が進むごとに調子を上げ、アメリカ戦では先頭打者本塁打を記録。決勝のキューバ戦では、中押しのきっかけとなる2塁打と、1点差に詰め寄られた後に突き放すタイムリーヒットを放った。マリナーズでは考えられない感情・闘志むき出しのプレイを見せつつ日本チームを牽引し、優勝に貢献するところ大であった。最終的に一次予選から決勝まで全ての試合で安打を記録し、打率.364(33打数12安打)、1本塁打、5打点、5盗塁、7得点、4四球を残して外野手部門のベストナインに選ばれている。
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